【ココロの健康 見返りを求めない難しさ】

 
 こんな光景、よく見ることも多いかと思います。
 
 
車椅子に座っているのは見た目40代くらいの方、
後ろで車椅子を押しているのはおそらくは親御さん、
70代なんだろうかと思える方が駅周辺で移動をしているような場面、
ここでは親子と設定します。
 
 
わたし(介護職)は車椅子の操作にも慣れているので、
ちょっとした動作にも理解ができて、こちらの目で介助法はあれこれこうでこうで、
車椅子の押し方がどうのこうのとが分かってくるようなこともあるのですが、
まずは何より本当にこちらが頭の中で連想すること、
親御さんも大変さを感じているよねということです。
 

足取り、姿勢でだけでも基礎的な体力的なことを想起させられます。
 
 
そうこうしているあいだにも前に進みながらも傾斜、坂道に差しかかりあら、どうしましょう。
 
 
わたしもそこでちょっと知ったような顔をしてこういう場所での車椅子の操作はこうするんですよ!
 
なんて割って入っていくのかというともちろんそんなことはありません。
 
親子はそのまま車椅子の進行方向も変えずに頭側から車椅子で傾斜を下り始めてしまったのですが、
まあこちらは見ているだけですね。

長年そうしてきた親子独自の呼吸もあるのだし、その場面で何か困っている様子、
出来なくてどうしようなような状況もなかったし、
もっとも危険な因子が見えていたわけでもなかったので、
アドバイスしてあげたいなという気持ちは何にもないということではなく、
むしろ信頼していこうという感覚です。

 
 
 
強固な親子の信頼関係の中に異物をいれることより、
一通行人としてその親子のすぐ近くを車椅子のスピードに合わせてわたしも歩く、そんな選択。
 
 
 
 
 幸せになるツールというものがあるとするなら迷わず相手に先に与えなさいとある。
 
 それは見返りを求めない難しさでもあります。
 
 
 
自分の持っている思いとか才能だったりするなら、
そうした相手の求めている気持ちに対して何かをしてあげられることができたり、
わたしたちも気持ちよくお手伝いができるきっかけになるのでしょう。
 
 
もしできるなら、ただ単純に善意ひとつだけの働きかけで相手に何かを届けようとする気持ちが芽生えるとうれしいですよね。

あなたが気持ちよく仕事に取り組めたり、
やるべきチャレンジに向き合うことへの成功を確信していますというメッセージを送ることができたら相手のパフォーマンスや生産性も上がって、
何よりも輝くような笑顔を見せてくれるのであれば、ただ嬉しいものです。

 
 
 
才能の循環とか、ビジネス目線で語るとどこかで相手に届ける為のマニュアルなようなアクションに転じてしまいがちでしょう。

難しいことを考えなくてもあの人が喜んでくれそうなことは何かと想像すると、
単純に朝の挨拶一言があるだけでも良かったり、
相手に関心を向けているということを外に向かって表現したり、
わたしも嬉しいものだと伝えてあげることですよね。

相手の魂レベルで喜びを届けてあげられるなら、
ちょっとくらいの時間やお金も使っていいのだと思えます。

 

むしろそうした機会に携われる幸運なご縁を頂いているのだと考えたらありがたいことですよね。

わずかなお金をケチって貯め込んでこちらの都合のいいときにだけエールを送っても多分、
半分くらいにしか届かない。

相手の言葉に隠された裏にある本当に気持ちに応えてあげられてこそ、
まさに今この時にというタイミングでわたしたちが純度の高い気持ちを届けてあげられてこそ、
本当にその人のために働けたのではないのかなと思えるものです。

 
 
今日もファイトです!

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