【ユマニチュード 認知症ケア、あなたはどう学ぶ?】
帰宅願望、徘徊、介護拒否といった言葉が最近はとても宜しくない意味合いの
言葉であるように思えてきています。
今さらかい!という突っ込みは無しですよ。
個人的な現場でそんなふうに思わざるを得ないことが多いとでも云いますか、
ひとつの気付きでもあります。
介助者側の視点で状況を決めつけている意味での帰宅願望や徘徊であったり介護拒否な訳ですよね。
つまりはこちらの言う通り、指示通りに動いてくれないじゃないですかー、とした心理がそのまま表れている言い回しであるように思えてなりません。
こんなふうに思うに至ったきっかけは「今、◯◯さんの徘徊がひどくって目が離せないんですよ」というような会話のやり取りが最近毎日のように聞かれるからなんですよね。
よくある光景と云えば、確かにそう、でもそれを聞いたこちらはなんだかイラっとしてきませんか?
徘徊以前のそっちの対応がマズいんでしょうが、なんて思ってないですよ!
もちろん悪態もつきませんけど、まずそれって徘徊なの?
そもそも何で毎日毎日徘徊があるわけ?
御利用者様はお行儀宜しく座ったままでおとなしくして、こちらの指示で体操させたり歌わせたりとそんな生活をさせて、相手が望んでいるのかと突っ込みたくなってしまいます。
他人の認知症ケアの技法のどうこうを云う資格もないですが、せめて一個人としてはね一方的な主観を持ってその人やその状況を決めつけてしまうのは認知症介護とは呼べないのではないかと感じますがいかがでしょうか。
ちょっと歩けば徘徊だなんて、どう考えたっておかしいですよね。
何かひとつ、その人の体温が感じ取れるくらいの接し方がとにかく毎日継続出来ているかどうか。
それがユマニチュードとしての技法のひとつなのだから。
簡単に薬で沈静化させることの危険性をどれだけ認識してわたしたちはケアに当たっているのでしょう。
当人にとっての役目とか楽しい事をいかに抽出して提供できるかに介護サービスの質が問われるのだとしたらその人自体をしっかり知ろうとしないことこそがマイナス介護が始まるきっかけとなるのだよね。
生活歴を辿ってどうこうとあれこれ意見を並べるよりも、どうせ生活歴を辿るなら介助側のわたしたち個人の生活歴も辿ってどうして今の自分がこの御利用者様の目の前にいるのかというところに紐づける。
螺旋状に相手の思いと介助側の思いを重ね合わせていけたのなら何か見つかるかもしれませんよね。
それに加えて自分の理想とするケアを展開している事業所や団体からヒントになる資料や
文献をひも解いてみたり、直接自分の足を運んで自らもその場を体験することで
自分のスタイルに新しいスキルをカスタマイズすることになれるならいい経験になると思うけど、
どうでしょう、そこまでの気概ありますか?
それとも世のため人のためというのは、口先だけですか。
うん、答えはあなたの中にある。
重度認知症、日常会話は成立しない方が常に「すいません、誰かいないんですか!」なんてケアを呼び止めようとしている場面、よくありますよね。
もちろん訴えを聞いたところで話しの内容はコロコロ変わるし同じ話しの堂々めぐり。
わたしもこの仕事に携わり始めた頃は周りの職員から「聞いてやって」なんて
言われて対応はするも大した仕事は何もできなかったですよ。
今の自分の対応は完璧!なんてことは思ったことは一度だって無いけれども、
どこかでいつもこれが最後だったらどうする?
というその意識が結果はどうあれ行動につなげてくれたものだと思います。
今日も頑張りましょう。